2011年6月26日日曜日

スポーツの価値発信の新たな可能性~スポーツとコミュニティ~(1)


また、シアトル留学中にHOOP HYSTERIAの会報に書いた記事を転載します。

震災後、コミュニティの存在が見直されていることからも、スポーツとコミュニティの関連性は今後もスポーツを考えていく上では重要な事柄だと思っています。

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皆さんこんにちは。今月はシアトルに悲しいニュース。シアトル スーパーソニックスがオクラホマの企業に買収されてしまいました。縁あってシアトルに来ることになったので、ソニックスの熱狂的なファンになるぞ、と渡米前に意気込んできた私にとって、とてもショックなニュースでした。ソニックスのキーアリーナの前や街中のお店などで、反対の署名運動やポスターがちらほら見られますが、将来的に移転は避けられないように思います。

さて、今回は前回を引き継ぎ、バスケット限定の枠から少し遠ざかって、スポーツがコミュニティに与える影響について述べたいと思います。スポーツとコミュニティの関連性については日本では比較的近年注目され始めた概念です。さらにスポーツを通じて作られるコミュニティの形は、日米で大きな差異があり、且つ、日本のスポーツを考える上で非常に重要な位置を占めていると考えています。今回は今までのトーンとは少し変わって、スポーツをより価値あるものとして証明していく必要性について述べます。

まず「コミュニティ」という言葉について説明します。コミュニティという言葉はカタカナで表現されていることに象徴されるように、元々は日本に無かった概念です(正確にいうなら、同様の事象・概念はあったが、英語のCommunityと全く同義のものは日本に言語として存在しなかった、ということと言った意味合いであると補足しておきます)。とても使いやすそうな響きですが、一見そのように見えて実は曖昧で認識の違いを生みやすいので、ここでは「①共通の目的や、趣味などを通じて②自発的に形成された③社会的集団」と定義しておきたいと思います。例えるなら、Hoop Hysteriaは①バスケットボールへの愛を共通点とし、②誰からの強制力も無く島本さんを中心に自発的に発生した、③暗黙の了解にて良識と思いやり、そして役割を持って支えあう集団であると言えるでしょう。

さて、コミュニティと聞くと、何を思い浮かべるでしょう。サークル、地域の子供会、スポーツ少年団、様々だと思いますが、コミュニティの果たす役割、と聞かれるとどうでしょう。あまり明確なイメージを持つ人は多くないと思います。実は、コミュニティは「見えざる」大きな価値を持っているのです。その価値の理由は「自発性」であり、自発性の構成要素は大きく3つであると言われています。1つ目は、お互いを信じあうことによりお金や労働力の代わりの役割を果たす「信頼」。例えば、お隣さんを信頼していれば、旅行の際に子供を預けられるかもしれません。その場合、ベビーシッターを雇う費用を払わなくて済むわけです。2つ目は、様々な交流や情報交換がなされる「ネットワーク」。ネットワークは人間に肉体的、精神的安定をもたらします。打ち溶け合える友達がいるのは健康な生活にとって重要なのは明らかですよね。また、バスケットのボランティアをしたいと思って島本さんに相談したら、とても良いボランティア団体を紹介してもらった、これはネットワークの効用の一つです。3つ目は強制的に定められたルール無しに、お互いを支えあったり、ルールを守ったりする「規範」。まとまりのあるサークルなどは誰の指示も無しに、さっと練習後にモップがけをしたりしますよね。また信用している人の前では、信用されるような行動をとろうとするのが一般的な人間の傾向です。PTAによるパトロール、子供会の清掃活動、無料の子育てセミナー、地域の大運動会。地域の複数のコミュニティが様々に影響しあって、時にこれらのような大きな活動を生むのです。これらの例はコミュニティの3つの価値が、お金を稼ぐという目的を伴わずして「自発的」にものごとを解決した例です。何でもないようなことに思えて、実はこのコミュニティの役割を全てお金によって解決したとして仮定して換算すると、莫大な資金になるといわれています。人間にとってコミュニティは必要不可欠なものです。学校経営や非営利組織の分野では特に注目度が高く、コミュニティの役割は研究として確立しつつあります。

さて、前号でも軽く述べたように(本ブログ上ではここで指す”前号”の記事はまだ掲載していません。大学にスポーツサークルが無い、と言った類いの話です。以後掲載します)、スポーツとコミュニティの関連性については日米間に大きな違いがあります。

まず、アメリカでは前号で述べたように、スポーツがいつでもどこでも楽しめる環境が整っているために、スポーツのためだけにコミュニティを作る必要が日本ほどありません。誰かが代表になりサークルを作って管理、運営をするという面倒なことをするよりは、自分がスポーツをしたいときにコートを訪れて、ピックアップゲームを思う存分楽しみ、満足したら帰宅、というのが一般です。

しかし、それにも関わらずアメリカには日本よりも遥かに多様なコミュニティがあります。それは「人種の坩堝(るつぼ)」という言葉に象徴される、人間の多様性に起因しています。アメリカは国籍、人種、宗教、セクシャリティなど、非常に多様性の富んでおり、それぞれ、とても強力なコミュニティが必ずと言っていいほど存在します。お互いの共通点に共鳴しあうことにより、様々な場面でお互いを支えあっているのです。中国人、ラテンアメリカ、黒人、キリスト教、イスラム教、ゲイ、レズビアン、もちろん日本人のコミュニティもあります。その結束は日本では考えられないほど強く、また活動的です。アメリカの場合はスポーツを通じてコミュニティを作るというよりも、もともとあったコミュニティからスポーツチームを作るという例が多いように感じます。アメリカでは、既存のコミュニティから、それらのコミュニティの結束を強める手段としてスポーツが選ばれるといった傾向が強いのだと思います。


  


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2011年6月17日金曜日

「組織」と「想定外」

2011年6月16日の日経朝刊から。東京を直撃するM7.3の地震は30年内に70%の確率で起こり、想定損失は112兆円という。今すぐ日本が大きく変わらないと、どうやら関東の人間に未来は無い様だ。 信憑性は分からないが、この数字が嘘でもいいと思う。一人一人が当事者意識を持ち、日本が変わるきっかけになるならば。

メディアは政府を叩き続ける。遅かれ早かれ管政権は確実に退陣するだろう。しかし、誰がリーダーになってもかわりやしない。もはや政府がどうこう言っている場合ではないのだ。そもそも今回の事態を誰もが納得できる方法で解決することなど不可能だ。今回の「想定外」は恐らく人間一人が扱えるキャパシティを超えている。

言葉の遊びではないが、想定外の事態を既存のルールが想定できる訳はない。組織はルールの成文化によって成り立つ。ルールを超えようとするとき、その責任は組織に属さず、個人に跳ね返ってくるから個人は怖くて動けない。組織として動けるようになるにはルールを変えるしかないが、ルールは未来の行動に大きく影響を与えるため、例外をルール化してしまうと大きな弊害が発生することがある。そうやって未来に起こりうる弊害をあれこれ想定しているうちに、大切な時間、大切な命が失われていく。

想定外に組織は対応できないのだ。想定外が全てを変えるこの時代に組織に未来を託すこと自体が間違いなのだと思う。リーマンショックが起きたとき、その「想定外」を「ブラックスワン(映画のブラックスワンとは無関係)」というふうに表現した本が流行ったこともあった。

想定外を超えるのは、結局は個々人がバラバラの情報から真実を掴み方向性を見いだす適時適切な状況判断力、利害を超えたコミュニティによる相互補助の力だと思う。 結局は個人が強くなること、生きる上で必要な仲間を自分で作ること、その総体でしか日本は次に来る危機を乗り越えられないのではないか。

人任せの体質がこの日本を蝕んでいく。少しずつでいい、個々人が体を動かし、現場から感じ、現場から学び、日本の未来の為に行動を起していくこと。その積み重ねでしか日本は変わっていかないのではないかと思う。

だからこそ、まず自分自身が動き続けること。現場を見て、動いて、そして学んだものを基に常に自分を変化させていくこと。それを大事にしていたい。