2020年6月16日火曜日

自浄作用

何かを守るために戦い始めたことが、感情を制御できなくなるうちに、相手を倒すこと自体に目的がすり変わっていくことがある。

攻撃すれば、より大きな反撃を受ける。その反撃の中で守りたかったものが、壊れてなくなり、相手を倒すことだけが目的として残ることもある。

徹底的に相手を壊滅させたとしても、それは同志の中に絶対服従の不安を煽り、またそれを突き崩そうという破壊の連鎖につながる。

個人や家族をただ守るためなら、先制攻撃は非合理的でしかないのに、それを忘れさせるほどの感情を人間が持つのは、きっと種を適度に競争・淘汰させて洗練させ、強くするという全体性のためなのだろう。

もし、その原理を理解し、全体性のために自身が淘汰されることを回避するために、戦うでも、逃げるでもなく、攻撃的な何かからは、遠ざかること、関わらないこと。

これからの世界に、きっと、もっと意識的に必要なことになっていくだろう。

2020年4月12日日曜日

外圧

蔓延する疫病によって、さまざまな変化が極端な前倒しで起き始めている。議論がされつくされることなく。

その変化を待ち受けていた人間には、さも朗報に見えるだろう。けれど、主体的でない選択は、かならず引き戻しを受ける。

口実による大勢を無視した変化と、必要に迫られた納得のある変化。この2つを見極めることが、生き抜くための正しい道を見極める大きな分岐点になるような気がするのだ。

日本が世界戦争に負け、選ばされてきた道を歩み続け、そして選択する力を失ったように。

2020年3月17日火曜日

分相応


自分の身の丈を正しく認識すること。身の丈にあった分をわきまえること。

今の自分にとっての分を超えて受け取るくらいであれば、馬の合う誰かと分かち合うこと。そこから始まる新しい関わりに、胸を膨らませること。

そうすればきっと、負けた時にまた立ち上がる勇気をもらえるような、人格の礎となるような気がする。

2019年1月2日水曜日

光陰

前にもこんなことを書いた気がする。自分が放った闇は、いつか大きくなって自分へと襲いかかる。

けれども近頃は、生まれもって抱える闇もまたあるのだと感じる。それを人は業や宿命、カルマと呼んだりするけれど、その闇と向き合うこともまた、大きな成長の源なのだろう。

闇を消そうと必死に輝いても新たな影は必ず生まれる。光り輝くほどそれは色濃くなる。けれど、それも自分が生み出したものだと思えば、排除することなく、ただその存在を受け入れることもできるのだろう。

音の門と書いて闇とは、昔を生きた人たちは、僕たちより随分と本質と寄り添って生きていたのだろうとつくづく感心させられる。もう少し、違う感覚を研ぎ澄ませてみよう。

起き上がるとき

ようやっと夢から覚めて現実と向き合う時が来たように感じる。

不思議なもので、どれも、これも、環境を理由にして先送りにしてきただけのような気がするのだ。

本当の自分であるために、あれこれと失敗した時の保険を積み上げることにとても長い時間を割いてしまったことは少し情けないことだが、それもまた自分の一部であると受け入れていこう。

高校の時に怪我をしてから止まってしまった時間が動き出す。卓越した努力によって望む結果は必ず手にできるというあの時の感覚を越えることができる手応えとともに。

接戦狙いであってはならない。必ず相手を圧倒できる実力と確信をその手にしてこそ、栄光は掴み取ることができるのだ。

2018年2月20日火曜日

三次元、四次元は未だ

三次元が当たり前になりつつある。二次元は、もう面白みに欠けるからだ。

二次元で表現できれば十分だった時代では、二次拡散が用意だった。紙にすればいい。動画にすればいい。

けれども立体感が商機になる世界では、根本は対面でしか伝わらないし解決しない。

紙とスクリーンでしか基礎となる伝達手段を持たず、また、対面での伝達が不可能なほどに規模が大きくなってしまった組織は必ず退廃する。

その他の五感機能全てをかけ合わせないと売れない時代は、生活者の成熟度も、事業者の限界も含めてあと10年はかかるだろう。

ひとつ変数が増えただけで、その理解難度を超えられる人、超えられない人の境界線が明確に分かれ、優勝劣敗がより色濃くなる時代がもう直ぐそこまできている。

2018年1月3日水曜日

2018.1.3 新しい座標

新しい目的地へと迷いなく進むために、今まで落としきれなかった標的を撃ち抜くことから手を引いてはいけない。

この一年は、結果以外を指標とはしない。ただ、勝利あるのみ。