2016年4月30日土曜日

言霊

文字は人類の叡智だ。

その象形には、驚くほどの真理が込められている。

時空を超えて世界のそれぞれの場所で生き残った文字たち。文字は光を映し、波長を変換してエネルギーを放つ。

深い見識と意図をもって適切に文字を使いこなせたなら、歴史をも変えることができると思うのだ。

大切なひと

この世界に、良い人間も悪い人間も居ない。

けれど、僕と合う人間も合わない人間も居るだろう。

限られた命ある時をたくさん笑って過ごすためにも、自分自身が「大切なひと」との時間を意識的に選択できるひとでありたい。自分のことを「大切なひと」と思ってくれるひとのためになら、命を懸けてでも闘うひとでありたい。

2016年4月29日金曜日

揺れる

想いは揺れる。

とっくに覚悟をしたはずなのに、いざ実行をしてみると自分の踏み出した一歩にたじろぐ。

でも、それは恋愛の躊躇のように甘い陶酔感を伴う。

自分に酔ってしまわぬように気をつけなくてはいけないが、それこそが大きな挑戦ほどに心が燃える自分の本性なのだろう。

どんな小説よりも面白い人生が始まってしまった。もう、心の底から湧きあがってくる高揚感と笑顔が止まらない。

2016年4月27日水曜日

意志



今まで、意志は人間だけが持つものと思っていた。 

でも、最近思う。動物、そしてモノですら意志を持つのではないかと。

人間だけが特別だという考えが、世界をおかしくしている。我々は、我々自身が理解し認識している世界においてのみの情報で正しさや不適切さを判断している。人間など世界の全体像の中ではほんの一部分の存在でしかなく、大きく流れる時の川の中の一瞬の煌めきでしかないのだ。

地球が人間を進化させたのは、きっと地球自身を守るためだろう。そうしたら、銀河系ですら、自分を守るために地球を生み出したのだと思う。

全てのことは、地球の意志によって起きている。地球だけで解決できないことは、銀河系が意志を持って何かを起こしている。

その逆転現象がたまに起こることがあるが、それもまた、さらに大きな何かの一部分でしかない。

そう考えるなら、今の前提条件となっている「正しさ」に対する固定観念や他人の期待や妬みなどを人生から切り離して、内なる感覚に従って生きる方が、限られた生命の時間において「生きることのできる喜び」をもっと感じていられるような気がするのだ。

宗教だ、魂だとかを語るつもりは全くないし、そういう風に捉える人がいることは理解もできるけど、自分がそういった類のものに入るつもりも一切ないことは予め断っておく。

けれど、理屈で考えたって、突き詰めて考えれば、そんなことなのかなって思う。





勘違いの正義

正義には色々な形がある。

けれど、正義を語るときに考えなくてはいけないことがある。

その正義によって、大切な人まで破壊することにならないか。

大切な人を犠牲にしてまで、その正義を貫く必要があるのか。

大事な人を悲劇に巻き込んでよい正義など、この世に存在などしない。大切な人に危害を加えないで物事をよくしていく手段はあるはずなのだ。

もう少しだけ、自分が信頼している人間と深く話し合ってみて出てくる答え。

それは、きっと「調和」なのだ思う。

2016年4月26日火曜日

テロリズムの本質

ある博士は、新しい掘削技術によって人間の進歩に貢献するのだいう信念を持って、ある特殊な爆弾を作りました。彼は悪い人には使えないように、彼にしか設計プロセスは分からないようにし、また、彼しか知らないすべての爆弾を止めることのできる暗号をセットしました。その暗号がセットされていること自体、彼しか知りません。

ところが、その爆弾が地形への被害を最小限にして人間を大量殺傷できる使い方が各国の軍部の注目を集め、その爆弾は高額で取引されるようになりました。

戦争が激化するにつれて、博士には大量のお金が入ってきます。また、各国首脳は彼の言いなりです。

博士は、博士の好きな人間で側近を固め、国家よりも強い権力を手にするようになります。災害が起きたときには博士は大量の寄付を投下し、世界から尊敬の眼差しを浴びることになります。彼の名前の大学も建ちました。

しかし、爆弾工場がある国の生活は全く良くならないどころか、工場員の過労死や鬱病が多発しています。幸せ指数は1番低いそうです。

ある時、博士の出身国で銃撃事件が起きます。15歳の若者です。父親が爆弾工場の工場員で過労死したそうです。その若者は、警察に射殺されました。

博士は自分のやってしまったことに気がつきます。爆弾ができる前、開発が全然うまくいかなくて挫けそうになっても人類の進歩のためにという信念で乗り越えたあの頃の気持ちを思い出したのです。もう、すべての爆弾を止める暗号を使う決心をしました。

その夜、博士は妻に毒殺されて暗号は闇の中へ消え、彼に媚をうることがうまかった経営者が世界の工場の実権を握ることになりました。

同じものの再生産はできるものの、爆弾がどのようなプロセスで作られたかは誰にも分からなくなってしまい、抜本的な改良はできなくなってしまいました。

爆弾は次世代に託されました。新たな兵器で戦おうとする人、爆弾をすべて回収しようとする人、爆弾工場を破壊しようとする人、爆弾は正義のためであると主張する人、爆弾を売って荒稼ぎする人、爆弾に巻き込まれる人、爆弾と関係ない世界へと旅立つ人、そもそも無関心な人、たくさんの想いが空に交錯しています。


また今日もどこかで爆弾が爆発し、そして憤怒するテロリストの銃声が空に響きました。たくさんの人が亡くなったようです。

-------
これは、核兵器のことを指しているのではない。株式資本主義の末路とは、こういうことだと思う。

そして、どの登場人物の行動も人間の本性であり、ある意味において正しくそして必然である。自分も状況との巡り合わせによって、どの立場となるのかはわからないし、巻き込まれるまでは考えもしなかった非常識な行動を取りうるということを認識することが重要であると思うのだ。

誰も、特別な人間などいない。誰もが始まりにおいては、何があっても自分だけは善良なる市民でいられ続けられると思っているし、たとえその手が鮮血で染まっているその瞬間ですら、自分は善良なる市民だと本気で思っているのだ。

2016年4月24日日曜日

決めることの高揚感

自分で決めることは楽しい。人間誰しもそうだ。「自由裁量が欲しい」「権限を与えてくれ」決める段階のうちはいい。

現実はそんなには甘くはない。決めたあとには遂行が待っている。それは辛く険しい道だ。

身の程知らずが高すぎる山に登って遭難しかけると、人間はどんな山も登らなくなってしまう。最悪の場合には遭難して二度ともどってこない。



負け癖がついた人間は、自分で決めることをしない。仮に、山に登らなければお前はいつか殺されると言われて、どの山に登る自信もなければ「あの山なら登れそうだよ」と言われた山に登ることしかしなくなる。それが、どんな険しい山かも知らずに。ある人は、友達を誘うだろう。家族も連れて行くかもしれない。「おれの上司のオススメなんだ!」と、それがアドバイスをくれた人間に利用され続けるだけの地獄へと続く山かもしれないとも調べもせずに。

じゃあ、負け癖がついたらどうするのか。初めて山に登りたいと思っている時にはどうすればいいのか。

心の底から信頼できる山のスペシャリストに「先ずはこの山から一緒にトライしてみようか?」と、やさしく手を引いて一緒に登ってもらうのだ。

少しずつ難易度をあげ、自分の実力の正確な把握と山の総合的な難易度と攻略のポイントを分析できるようになったら、少しずつ1人でトライをしてみる。



そして、いつか、山を登りたいけれど登山口でモジモジしている人に、そっと声をかけてあげる。「一緒に登りませんか?」と。さらに教える過程を通じて経験は言語化・形式化され、自らの登山のスタイルへの気づきと成長へと昇華していく。


だけれど、稀にエベレストを制覇するような偉人が出てくる。彼らは、そもそも、失敗するかどうかなんて考えていない。山を登ることを心の底から愛し、その挑戦の中で死ぬことになっても何も後悔などしないと心の底から思っているからだ。

2016年4月23日土曜日

悪の中枢

諸葛亮孔明や土方歳三、勝海舟の様に優れた参謀が劉備玄徳や近藤勇、坂本龍馬の様な華々しいリーダーの陰で暗躍し時代の行く末の手を引いた様に、本当の悪も形式上のリーダーに巧妙に汚名を着せては排除することを繰り返し、闇の奥に潜み人知れず生き血を啜っている。

その悪の中枢を叩かなければ、名もなきテロリストの勇敢な銃声は虚しく空へと消えていくだけだろう。

だからこそ改革は徹底的に行わなければならないのだ。すべての原因を根本から絶つまでは。


正しいかどうか

今、その瞬間にやっていることが「正しい」かどうかなんて、そんなことは分からない。

けれど、その瞬間にやろうとしたことが、何かを良い方向に導こうとベストを尽くしたものであれば、後で振り返ってそれが瞬間的に正しくなかった判断だ思えたとしても、それはその後の時間軸も含めれば必ず物事は良い方向へと向かう。

立場によって、見る角度によって「正しさ」は変わりうる。だから、あれこれ「正しいかどうか」を熱論して何もしないよりも、小さくても今「より良い」何かをひとりひとり追求し、行動していくこと。

その総体でこそ、人間は進化してゆけるのだと思う。

2016年4月22日金曜日

総仕上げ

今日は、自分が信念をもって取り組んできたことの総仕上げの日。

それを歓迎するかのような、この最高の晴れの朝を、きっと僕は一生忘れることはないだろう。

さあ、想いよ届け!


ZONE



ある極度の集中状態になったとき、ZONEに入ったということが、スポーツではよく言われる。

体と神経の連携が調和しているとき。ベーススキルがしっかりと下支えがあるとき。本能と理性のバランスが絶妙に均衡しているとき。精神と肉体が十分に良いコンディションにあるとき。

条件は諸説あるが人間は100%のチカラを出し続けると肉体が崩壊してしまうため、一定のリミッターが作用するのだが、何かしらが引き金となってそのリミッターが外れる時間帯があるというのだ。

これは仕事にもあると思う。突然、これからやろうとしていることへの恐怖感がなくなり、どんな難しい交渉の道筋も一瞬で閃き、相手の反応を見てプレゼンテーションもその場で柔軟に変化できる。

プライベートで好きなスポーツを続け、自己啓発書をすこしずつ読み進め、大切なヒトとの時間を多く確保するとともに睡眠時間を十分にとる。その日常はもちろん調子が良くて仕事もはかどるのだが、ZONEとはまた違う。ただ調子が良好なだけ。

思わぬピンチが組織に訪れて極度の緊張感が走った瞬間や、見過ごすことのできない不祥事の種を目前にしたときに、自分の危険など顧みずに全ての細胞がその解決に向けて動き出す感じがするのだ。

ただし、ただピンチが訪れてもプライベートも含めて自分がトータルでベストの状態でなければZONEには入らない。

では、ZONEは誰にでも作れるのかというと、正直ZONEに入れるかどうかは天性である気がする。少なくとも何か1つを猛烈に愛せる志向性がない限り、ZONEが発生する状況を作りこむことが不可能だと思うからだ。

では、猛烈に何かを愛する志向性はどの様に作れるのか。


猛烈に愛されたことがある人間は何かを猛烈に愛することができる可能性を持っている、ということであれば、それは限りなく天性という条件と性質が似ている父と母の存在なのかもしれない。

それともう1つ、スポーツならまだしも仕事のZONEは自分のリスクを顧みない結果、組織や社会としては長期的に正解であっても他人の恨みを買い自分を危険な状況に追い込むことはあるから気をつけなくてはいけない。ただ、ZONEが発生する状態を作ろうとすること自体がその危険を受け入れる覚悟そのものであるから、怯むことなど何も無いのもまた真実かもしれない。




2016年4月21日木曜日

達成感

まだ、完全に終わってなどいないけれど。。。

人生で一番の達成感が、今。

すこしだけ、鷹村の気持ちが分かったような気がする。

でも、完遂まではあと一息。やり抜こう。



引き際

時勢に必要とされるリーダーというのは居る。けれど、時勢によって、今まで必要とされていたリーダーが必要でなくなるときもある。

それは自分にも起こりうることだと思うのだ。

改革の中心にいるときは気持ちがいい。特に創造的破壊を得意とするリーダーは世間で目立つので、尊敬の眼差しで見られることが多い。けれど改革は常に続けるものではなく、必要なときに限って集中的に行うものだ。改革がひと段落すれば調和や緩やかな成長こそが必要となる。

常にイノベーションを起こさないといけないという固定観念は、資本をレバレッジとして短期間で富を最大化するアメリカ型資本主義のご都合主義であって、必ずしもそれが正解ではない。分かるヒトは分かると思うが、近代ファイナンスの要諦はそれを助長するイデオロギーだ。

改革が終わったなら自分はもはや今までと同じ輝きはその集団の中に於いては持たないのかもしれないということ。もし、その集団に愛着があり残り続けたいと思うのなら、調和を得意とする人間に名実ともに上位の権威を渡し、むしろその人間に教えを乞いながら組織の成長に貢献すること。

どうせなら僕は、引き際が美しい人間でありたい。

瓦解

名も無き勇者の手によって、世界の理不尽が少しずつ明らかにされていく。

ただ、この先に本当に僕たちの望む未来が待っているのかどうかは分からないと感じている。

ヒトは誰も完全になどなれない。

どんな人間でも過ちを犯し、その過ちを誰もが完全に克服することができるとは限らない。

だからこそ、ヒトは補い合い社会を形成してきた。

この世界に起きている変化は、リーダーに完全を求め、もしその不完全さから不利益が少しでも発生すれば、時のリーダーを袋だたきにし失墜させる構造を作ろうとしていることだ。

人生のほとんどは自分の選択の結果であることは誰もが認めるところだろう。うまくいっているときはいい。けれど、ほとんどの人間が自分の選択が思わぬ結果になった時、誰かを責めて心のバランスを取ろうとする。

それを助長する仕組みを作り上げることが正しいことなのだろうか。

絶対に達成不可能な完全を求めることはさらなる隠蔽を助長し、いつかそれが邪悪の巨大な塊となり、臨界点を超えた時点で無関係な人たちを巻き込みながら地獄へと引きずり込んでいく。

こんな時代だからこそ、邪悪の塊に自分や大切なヒトの人生を犯されそうになったとき、闘うのか、すり抜けるのか、はたまた撤退するのか。状況を見極め、冷静に判断し、困難を切り抜けられる強さをもたなければならないのだと思う。

2016年4月20日水曜日

急拡大の痛み

中学生の頃、膝が痛かったのを覚えている。

身体が急激に成長するスピードに、接合部分がうまく適応せず、それが成長痛として、本人にしか分からない痛みとなって出現する。

その最中、指導者が無理をさせ、一生癒えることのない膝の怪我を抱えることはよくある話だ。

それは、いち個人と部活同だけの話ではない。きっと組織や会社でも同じことだ。

成長痛の割に、身体が大きくならなかった人間として思うこと。

それが、愛に守られた結果、不必要な拡大が阻止されたのだとしたら、見た目の大きさ以外にもかけがえのないものを数多く得ることができた素晴らしさを、全くの皮肉を無しに素直に「良かった」と言えることができると思うのだ。

終わりと始まり

このあいだの日曜日は強い風だった。

何かが産声をあげるとき、同時に何かが必ず終わる。

風が、全ての矛盾を吹き飛ばしていくようだった。

2016年4月16日土曜日

覚悟

今までが中途半端だったのかもしれない。

この程度までやったら終わりにする。この期間は頑張る。

いや、違うだろ。2年くらい、3年くらいと口にすることに何の意味がある?

どれ程に労力と時間がかかろうと、完遂するまでやりぬくんだ。終わらなかったら死ぬ直前までやるんだ。

そう覚悟を決めた途端、毎日、自分が自然と変わっていくのを実感する様になった。前よりも、周りの仲間を深く愛せる様になった。煌びやかさに目が眩んで作り上げた人間関係、分相応でないモノとの関与をどんどんと手放していく勇気を持てる様になった。

覚悟とは、決意とは違う。

覚悟とは、目指す場所に辿り着くまでに起こる全てを受け入れる強さだと思う。

2016年4月14日木曜日

転生と回天

長い時間を経て、善意と錯覚して取り込み自分の中に住み着いてしまった心を縛り付ける何かが、1日1日、身体の外へと流れ出ていくのを感じる。

成長しようとジタバタすることではなく、解き放つことによって本来あるべき心の大きさとカタチへと自然に拡張していくような感覚。

結果を追い求めること手放し、自然と大切にしたいと思える何かに、どんな結果になっても愛し続けるのだろうという心触りとともに少しの祈りを添えて毎日そっと水をあげ続けること。

そうしたら、思いもよらぬほど早く芽は息吹き、たくましく茎と葉をつけていった。これから、どんな花が咲いたって、きっと愛おしいのだろう。そして、その後に実る種を、僕の生き方に共感してくれた誰かが、きっと、もっと大きな愛で見事に育ててくれるのだろう。

そんなことを、考えている。

情報を加工する恐ろしさ



最近、NBAの試合を観てて思うのだけれど「接戦!」の見出しが付いてる記事が出回ってる試合を、全試合カット無しで見てみると、ディフェンスが単にザルで、ただの打ち合いだから点がたくさん入っていることもたくさんある。

ほとんどのNBAファンが全ての試合を通して観て内容の良し悪しをちゃんと確認などできないのが事実な中で、NBAの情報配信の役割は、与えられた結果情報を組み合わせて、嘘をつかない範囲でできるだけファンのワクワクを掻き立て、観たいという気持ちを喚起させること。

そう考えると、メディアが想起させたいイメージと現実はメディアビジネスの経済合理性の追求を原因としてねじれが発生し、人の判断を誤らせることもある。

なんだか、大袈裟な話ではなくアメリカを象徴してる気がするな。だから、非営利のメディア団が世界に大きな影響を与え台頭してきているのだろう。

現地時間4月12日のスパーズ対サンダー戦、メディアは好ゲームの様に描写してるけど、よくよくスタッツを見てみると、ウエストブルックもデュラントも全く出てない。どんなにスコアが接戦だとしても、それは面白くないよ。。。と、思ってしまう。



少し話は変わるけど、これまでプレーオフ前までは選手をちゃんと休ませていたスパーズが、明らかな消化試合でレナードやダンカンをはじめとした主力を使いまくって、しかも控え中心のサンダー相手に接戦になってしまっていること自体、スパーズ大丈夫なのか?って思ってしまう。



ウォーリアーズの輝きに、自分たちを見失ってないだろうか。

2016年4月13日水曜日

信じること

信じること、信じ続けることって、すごくエネルギーを使うよね。

でも、ヒトを信じてあげられない時って、自分自身を信じられない時であることが経験上たくさん重なっているのは、偶然じゃないのかもしれない。

変えるということ、変わるということ

そこに自ら変わろうという意志がなければ、一定の影響を与えることができたとしても、本質的にヒトが変わることはないと思う。

そもそも、ヒトを変えようという行為自体がおこがましいと思うのだ。

道を歩こうとするとき、先導する人、先導に従う人、違う方向に行く人、その場にしゃがみ込む人、歩もうとする人の足を引っ張る人、歩けない人の手を引っ張って歩く人。

それぞれが置かれた状況、置かれた立場で、意識するしないは別として夫々の意思を持って、今を選択している。

大切なのは、そのヒトがなぜ、その行動を取ろうとするのか理解しようとし、時にはその気持ちに寄り添うことだと思うのだ。

夫々の選択の結果、違う場所にたどり着くのであれば、それぞれの自分の現在地を、ただ自分自身が受け入れるしかない。

選択の時が訪れたとき、誰かに選択を押し付けられたとしたら。きっと、いい結果が出たときは自分が受け入れた寛容さの結果と見栄を張り、悪い結果が出たときは誰かのせいにするのだろう。

選択の時が訪れたとき、自分で覚悟を持って選択したのなら、きっと、いい結果が出たときは運がこれほどにも結果を左右することへの真理に驚きと感謝を感じ、悪い結果が出たときはベストを尽くしたのだから仕方がないとすぐに前を向けるのだろう。

そうと分かっていながら、選択は他人に大きく影響を受け、それもまた、一概に悪いこととも言い切れないのが、今を懸命に生きる妙理なのではないかと、そんな風に感じている。

2016年4月7日木曜日

人間にあって、動物にないもの

人間にあって、動物にないものってなんだろうと、ふと考えてみた。

お金?言葉?技術?いや、それは枝葉やツールであって、もっと根本的な何かがあるはず。

それで、少し考えてみた。

それは、自分以外の何かに意識的に影響を与える力、なんじゃないかと思う。

そして、その力を「意志」と呼ぶのだと思う。