2011年4月25日月曜日

震災前、震災後。

2011年3月11日。目の前の世界が変わってしまった。そう考える人は僕だけではない気がする。世界が変わったのか、モノの見方が変わったのか、自分が変わったのか、分からないけれど、確実に何かが変わった。

僕らは長い歴史の連続の中にいて、その一瞬の輝きでしかない。そして、自分の努力とは無関係にその輝きは、いとも容易く吹き消されてしまうものだということ。

無宗教の僕らに信じる神様はいない。死の危険にさらされたとき、どんなに祈ろうとも誰かの神様は僕らを助けてくれない。だからこそ、死の淵にさらされたときには信じるものは仲間しかいない。



ただ、それ自体は憂うことでもないとも思うのだ。



懸命に生きた輝きは、次世代の道を照らす連続へと繋がる。加えて言うなら、言葉を与えられた人間は物理的に遺伝子としてだけでなく、形として仕組みや思想を次世代に遺す事さえできる。仲間を心の底から信じることができれば、宗教を持つ人が神と位置づける様な心の存在を、生きている間に肌で触れて温かさを感じることができる。

起こってしまったものは変わらない。そして日本がどうあろうとも世界は止まってはくれない。きっとこの震災の本当の問題はゆっくりゆっくりと姿を現し、日本社会全体に大きな挑戦を突きつけるだろう。

この後にどんな大洪水が日本を襲おうとも、僕は日本人として日本と共にありたい。これから忍び寄る問題を日本が解決できないなら、どの国に行ったって同じだと思うのだ。日本ほどに苦難に耐え、隣人を信じられる国など無いだろう。もし、日本が証明できないなら、どんな国だって同じような困難を乗り越えることなどできないだろう。

グローバル化の潮流の中でもはや時代錯誤の捉え方かもしれないが、僕は「日本人」として胸を張って、強く生きていきたい。


最近、そんなことをずっと考えている。