2012年12月31日月曜日

2012年も年の瀬を迎えて

残すところ今年もあとわずか。オモローな同期がブラジルにいるこの機をねらって年越しブラジルへ。いま、この記事を書いているのはニューヨーク行の飛行機の中。もうじき、クリスマスイブの夕方にニューヨークに到着。色めき煌めき華やぐマンハッタンをガン無視して目的地のクリチバにクリスマス早朝に着予定。


誰もやったことのないことにチャレンジすることを決心した去年。僕はどれだけ思う道を思ったとおりに進んできたのだろう、振り返ってみることにする。

2012年を一言で振り返るとしたら「こりゃあ大変だぞ」ということが分かった1年。正直、こういうことなんだと思う。

仕事に手応えと勘所を感じてきたのが去年。心には若干の余力が生まれ、新たな仕組みやイノベーションをいろいろと夢想することができた。そしてそのイメージに共感してもらうこともわずかながらだけれどもできたと思う。そして、満を時して実行を決めた今年。何とか実行にはこぎつけた。でも、蓋を開けてみると相当に仲間の力におんぶにだっこで、ギリギリの内容だった。

仕事にも自ら望んで新しい領域に飛び込んだ。これまでとは全く違う、思考の方法を知る。今までは営業現場が迷わず進める様に、彼らの悩みを考え、先行して動き続ける、それが全てだった。けれど新しい領域では最適な全体のシステム作りをどのように行い、組織全体の意思決定をリードする為にはファクトをどのように加工しどのように経営に見せるのか、全く違う視点。それで毎日ウンウンと唸っていた。

2011年は正直、120点くらいだったと思う。けれど2012年は60点くらいだ。今年たくさん夢は叶った。でも叶った瞬間に意味はなく、付加価値を継続して創出できなければ本当の変化は生まれない。それを痛感した一年。自分という同じカラダを与えられて、今年と全く同じ環境に与えられてどこまでもっとうまくできたのかは分からない。けれど、自分という器はもっと大きくなるのだと信じていたい。だから60点。

でも、これは決して一年間が負けの一年ということを意味するものじゃない。イベントの実行を通じて、副業の人間だけの力を集めて大きなことを成すために必要な労力と時間量は大方感覚を得た。複数人へのバラマキ型の雑なコミュニケーションがいかに非効率で、かつ有害かも実感を得た。自分を悩ませ、消耗させた、大組織の行動のメカニズムや、政治的要素のわずらしさも、決して目を反らしてはいけないもので、発見するのが遅いか早いかだけの違いだ。Sport Solutionも仕事の異動も自ら志願したこと。自分でやると決めたことに、部分部分の挫折はあったとしても、大きな目で見ればマイナスになることなど無いのだと信じる。突然の飛躍なんてあり得ない。自分の力も人間関係も、コツコツと丁寧に積み上げることでしか大きくなっていかない。

そして60点の中にも、これから後の120点を生むかもしれないと思える発見があった。それは自分にとって大事なのは「仲間」の存在そのものなんだということが実感をもって再確認できたこと。正直、今年の後半戦は苦しくてしょうがなかった。けれども、年末の忘年会では久しぶりに集ったメンバーが楽しそうにワイワイやっているのが見ることができて、会うことできなくてもメンバーそれぞれが今を一生懸命に頑張っていることを知ることができて、なんだかふっと心が軽くなった気がした。どんなに活動が大きくなっても、仮に万万が一うまくいかなったとしても、どうあったって仲間と過ごした時間を、仲間と共に笑って振り返られるようにすること、それこそが僕の目指す生き方なんだって。きっと、それを常に感じながら生きていけるかどうか、行動にしていけるかどうかが、自分が間違わずに前に進めるかどうかを左右する鍵なんだと思う。

ブラジルに向かう飛行機の中、この文章を書いているけれど、23日の忘年会で僕の年は明けてしまったみたい。僕は喜びも苦しさも詰まったこの一年間を決して忘れないようにしよう。その意味では、23日の夜は、忘れてはいけないことを心に刻み込んでくれた、未来に向けた一歩のための時間、星出さんの言ってた「望年会」だったのかもな。


来年は上げるぞ、反撃の狼煙を。





2012年9月30日日曜日

「あなたがスポーツを子供にさせたから、今日食べるご飯がないの」

今日は東工大の蒲田キャンパスで行われた社会起業関係のシンポジウムに参加してきました。
http://www.teu.ac.jp/sentre/

スポーツの価値って何なのだろう、スポーツができることって何なのだろう、そんなことを深く、深く考えさせられることがあったので、心に留めておくために、久しぶりにブログを書こうと思いました。
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このシンポジウムでどうしても聞きたかったのが、大学時代に一緒に障害者とのスポーツ交流会のプロジェクトをやっていた山田貴子ちゃん(以下から、やまちゃん)の経営しているWAKU WORK Englishの話。
http://wwenglish.jp/
フィリピン人の英語教師と日本人をSkypeで繋ぎ、ビジネスにするもの。ただ、安価な英語レッスンというだけではない。フィリピン人がしっかり稼げるビジネスモデルを構築し、フィリピンの若者の自立や夢を追うことを支援しようとしている。

スポーツ大好きっ子だったやまちゃん。大学4年生まではスポーツでフィリピンの子供達を笑顔にしたいと言ってフィリピンに何度も通っては、ストリートチルドレンとバスケットボールをしていた。満面の笑みの子供たちに囲まれて、楽しい時間をすごしていたけれど、4年生の終わりも近づいたころ、フィリピン人の子供の母親の一言が彼女の考え方を一気に変えたという。

「子供達は楽しいし笑ってるけど、あなたと一日遊んでいたせいで、子供がはたらくことができず、私たちは今日食べるご飯がないんだよ」

ボクはその場にもちろん居たわけではないし、やまちゃんから間接的に聞いた言葉にも関わらず、スポーツを愛する人間としてすごく悔しい思いがした。でもこれが現実であって、認めるべき事実なんだって思った。やまちゃんはそこから、本当にフィリピンの役に立つにはフィリピンの人が経済的に自立し、夢を追うために、ちゃんと稼げるビジネスモデルを現地でつくらなくちゃいけないと思ったという。

スポーツの果たせる価値って何なのだろう。スポーツに求められる役割ってなんなんだろう。もちろん、フィリピンと日本では状況が違う。でも、フィリピンの子供のお母さんが言っていたことは、すごく本質をついているのだと思うのだ。

「部活動ばっかりやってないで、勉強しなさい。いい大学に行きなさい」

そういう日本人の母親も、遠からずフィリピンの母親と同じことを言っている。その反論としてボクらは部活動は「チームワーク」「ヒトとヒトのやり取り」「礼儀作法」を知るこれとない場所とかと言ってスポーツの価値を正当化しようとする。

だけど、それってスポーツだけ特有の価値なんだろうか。WAKU WORKに勤めるフィリピン人の学生は、スポーツをしていなくたって、英語を一生懸命勉強し、組織の中で頑張り、仲間と励まし合い、稼げるようになって余った奨学金を孤児院に寄付し、立派に社会との関わり合いの中で生きている。しかもやまちゃんはこういう。

「私が一般企業さんに研修として使ってもらえないか営業に行く時は、一切フィリピンの事情は話しません。単純に英会話教室の他社さんと比較して、安価かつ高品質のサービスであることだけを強調して使ってもらうよう営業しています」

こういう姿勢こそがフィリピン人に自尊心をもたせ、自立に導くのだと思う。僕が親だったら、適当に部活動をやるくらいなら、きっとWAKU WORKでインターンしてきなさい、と思ってしまうだろう(部活を適当にやるような子はWAKU WORKでは必要とされないと思うけど)。



スポーツを通じて社会問題を解決する。スポーツにしかできないことがある。決してその想いは消えてはいないし、揺らいでもいない。けれど、今日話を聞いて衝撃を受けた現実は、目を背けずにいたいのだ。


「あの時スポーツに出会えたことが、自分の人生で本当に役にたっている」
「スポーツを選んだからこそ、本当にあの子は強く生きていく力を身につけた」


今を生きる子供達が、今を生きる子供達を想う母親達が、10年後、20年後、そう思ってくれるように。そして、


「スポーツの力があるからこそ、今の日本が強く、逞しくある」



20年後、30年後、そんな社会になっているように。そんなふうに僕自身が振り返れるように。コツ、コツ、コツ、コツ、近道はない。今できることを行動として積み重ねていこうと思う。

今度は社会人として同じフィールドで、もっともっと高いハイタッチができる日が来るように。


やまちゃん、ほんとカッコ良かったな。もっと自分もがんばろっと!


山田貴子ちゃんのインタビュー記事
http://webronza.asahi.com/synodos/2012021700001.html

やまちゃんと一緒にやってたバリアフリースポーツ
http://city-sports.sfc.keio.ac.jp/top.htm

2012年5月13日日曜日

怒りを明日の光へと変えて

ようやっと年度末決算も終わって、企業内で会計士の仕事をしている僕も一段落。年明けからずっとSport Solutionも本業も走り続けて、ようやっと「実行」は一つ区切りがついた今、ずっとどうしても書き記しておきたいと思っていたことをここに文章にしておこうと思う。この経験、この事実は僕の心の中で消せぬ現代社会への怒りとして、その不条理をどこまで自分の行動によって治癒することができたのかを強制的に直視させるものとして、僕の心を縛り続けるだろう。

プロジェクト結の活動に参加し、学校のブランコのペンキ塗りをするWyjuana

3月12日のバスケイベントに向けて、いろいろな方に話を伺っていた1月から3月。石巻の先生に会い行ったとき、ちょうどプロジェクト結のボランティアの振り返り作業を行っており、その振り返り会を見学させてもらえることになった。

50歳程度の年長者から高校三年生まで、会社の社会貢献活動の一環として来た人もいれば、自費でボランティアに来ている人、そのバックグラウンドは様々だった。

その中で、高校3年生の女の子が目に涙を一杯にためて話した言葉を、僕は一生忘れることはないだろう。

「友達に、自分でお金払って、休日まで潰してまでなんで東北なんかに行くのって聞かれた時に、胸を張って”誰かの役に立ちたい”って言うことができなかった」

そのおとなしそうな女の子は大学では心理学を学び、人の心のケアをしたいという。活動の一週間のうち、始めの方の日程で体調を崩してしまい、力仕事にあまり参加できなかったようだった。

「人の役に立ちたいって来たのに、迷惑をかけてしまった。同じ高校生でも、大人に積極的に声をかけてリードしていた人もいた。みんなみたいに、もっと強くなりたい。こんな自分で悔しい。」

何か、この風景はおかしくないだろうか。

人の役に立ちたいと心の底から思っていて、行動に移したその心優しい女の子が、ただ、ただ涙を流すその姿に、僕はぶつけようのない怒りと自分の無力さ、そしてこの日本の惨状を見た気がした。なんと貧しい社会だろう。たくさんの命がなくなった大震災の直後、自然に苦しむ人の役に立ちたいと思った結果が、その人自身の心の苦しみを生むことになるなんて。


経済発展を追い続けた日本。その行き着く先に求めていたのはこんな現状だったのだろうか。戦後、復興を胸に生き抜いた先人たちは決してこんな未来を描いていなかっただろう。誤った経済発展の終着地点に到達してしまったこの日本。もう一度、光のある方向がどこなのか地図を描き、誰でもそこまで行けるようなレールを強い意志で構築していかなければならない。


泣いていた女の子へ。

本当にごめん。僕らが大人が不甲斐ないせいで、苦しい思いをさせてしまった。


10年後、20年後、また彼女にあうことができたとしたら、彼女は笑顔でいられる社会になっているだろうか。10年後、20年後、心優しい高校生が苦しむ人たちに手を差し伸べたとき、生きる喜びと出会えるような社会となっているだろうか。もし、そうなっていなかったとしたら僕はまた無力感に包まれ、今度は僕自身がその環境を日本に作り出した一級戦犯の一人として、罪悪感に苛まれることになるだろう。

僕だって時に不安になるし、信じたい。3月12日の東北でのバスケ教室が、少しでも子供たちの明日を照らす光につながっていくものだったということを。


走っていきたい、困っている人を助けることが賞賛され、誰かのための小さな挑戦が生きる喜びの連鎖を生む、そんなことが近い将来、当たり前の社会になっているように。

2012年4月24日火曜日

バスケプロリーグJBL・トヨタの優勝と変化の予感


4月22日、トヨタが5年ぶりの優勝。長い間覇権を握ってきたアイシン王座を奪い、全員バスケでトヨタがアイシンに完全勝利する形で2011-2012年のJBLシーズンは幕を閉じた。





アイシンの負け方を見て、ひとつの時代が終わった気がした。個々人の能力の足し算で勝利が決まっていたバスケットから、チームで闘うバスケへ。バスケをプレーすること自体が職業としてなりたっていた環境から、応援されるチームが質実ともに持続的に成長し、頂点を極めるという風潮へ。

この変化は、他のスポーツ業界から比べれば、とても遅い変化なのは指摘される点かもしれない。野球、サッカーはとっくにその風潮になっている。けれども、これからバスケ界に確実に変化は起きる気がする。決して遅くは無い、野球ともサッカーとも違う成長を追い求めていける。

僕自身、スポーツ関連のNPOを経営していることもあり、平等性の観点からも僕自身がひとつのチームを過度に応援することはあまり望ましいことではないのは事実。それでなお今年のトヨタには応援する理由があった。何回かお話しする機会があった岡田優介選手、伊藤大司選手の存在が大かった。


岡田選手にはなぜ、日本代表の活動を続けながら公認会計士の資格を目指したのか聞いたことがある。そのとき彼はこんなふうに応えていた。「バスケットボールの日本代表というバスケット選手として一番難しいチャレンジ、そしてビジネスの資格の中で最も難しい資格のひとつとされる公認会計士、両方を同時に達成することでアスリートであっても文武両道を達成できることを証明したかった。実は絶対に公認会計士ではなくてはいけないということでは無かった。一番困難な挑戦の一つとして公認会計士試験があったから、それに打ち勝つということを達成したかった」
自身の得点能力を犠牲にしてまで相手の司令塔に対して執拗にディフェンスプレッシャーをかけ続け、アイシンのチームワークに大きなダメージを与えた。



伊藤選手は高校の頃からアメリカにチャレンジし、世界の大学リーグの中で格段に競争が熾烈なNCAA一部リーグで2年生の頃からキャプテンを務めた選手。彼にも、海外に挑戦した経験について聞いたことがある。「子供達には少しでも早く世界にチャレンジして、その興奮を体感して欲しい。海外挑戦の興奮を子供達に知って欲しい」
アメリカの大学出身らしく情熱をコート上で露出する伊藤選手。優勝が決まったときも歓喜の雄たけびを上げていた。



二人の話を聞いたとき、日本のバスケの何かが変わる気がした。彼らは「バスケが好き」その想いが何より一番で突き動かされているのは間違いない。けれども、彼らがその気持ちを追い求める先に待っているのはバスケ界の発展だけではない。彼らがバスケットを追及する先には、自分以外の誰かを勇気付け、挑戦のエネルギーを引き出す光がある。そして、その輝きはバスケットボールを好きではない人間さえも照らすだろう。

偶然か、必然か、若者のキャリア教育の問題が叫ばれるこの時代において、トップアスリートがビジネスにチャレンジする姿は子供たちに鮮明に突き刺さるだろう。偶然か、必然か、国際コミュニケーション能力の世界的劣後が叫ばれるこの時代において、単なるスポーツ留学ではなく、学業にも厳しいアメリカの4年生の大学でしっかりと勉強し、アメリカ人に対してリーダーシップを示した姿は海外コミュニケーションのあり方を提示するものとなるだろう。今の日本社会で重要かつ喫緊の課題に解決策の方向性を提示できることにおいて、この二人は突出したものを持っていると感じるのだ。バスケットというフィールドだから分かりづらいのが苦しい。けれどもこの凄さは、事実さえ伝播させればメッセージは必ず伝わる。



震災の被害が大きかった石巻市でのバスケクリニック。岡田選手や伊藤選手の想いを受取った子供たちの中から、世界を牽引する人間が登場するに違いない。



そんな彼らが震災から1年明けたこのタイミングで想いを果たして優勝した、それは大きな意味がある。バスケットボールだけではない、日本のスポーツにとって意味のあることのように思うのだ。この熱が冷めないうちに子供たちの未来の明るい連続へと繋がるよう、彼らの想いがもっと多くの人に届くよう、少しずつ僕自身も挑戦を積み重ねていきたい。

岡田選手、伊藤選手、二ノ宮選手、そして仙台89ersの選手とともに行ったクリニック
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ずっと応援してきたからこそ、この文章は主観的で偏りがあることは百も承知で。けれども、全く面識の無い時から、心の底から応援するようになったきっかけは嘘じゃなくて。そして応援している人の夢が叶った瞬間の気持ちを書き記しておきたくて、こうして文章を書いています。来年からは、もう少しニュートラルでいかないとですね(笑)。トヨタが王者から引き摺り下ろされる危機感を感じるようなライバルができるよう、色々なチームのサポートに力を入れて行きたいと考えています。

2012年3月24日土曜日

中国で見た確かな未来への輝き

火曜日から今日土曜日まで会社の出張で中国に行ってきました。中国という持つ可能性に、中国人の目の輝きに魅せられてしまった、そんな旅でした。タイ、アメリカ、シンガポール、ベトナム、ヨルダン、シリア、トルコに行きましたが、こんな感覚は初めてです。
(上海の中心地、浦東のショッピングモール。真ん中に見えるのはappleストアへの入り口)

(銀座、六本木と同等、あるいはそれ以上の上海中心地)

よくある中国に対する偏見。
・今の成長はバブルで、実質が伴っていなんじゃないか
・中国人は金だけで、本質を見ていなんじゃないか
今回この目で開発の現場を見て、中国人と話してきた感覚として、それは真実ではありません。もちろん全然ないかといえばそんなことはありません。でも日本よりちょっと多いな、と感じるくらいです。僕が見てきたもの、感じたこと、それを書き綴っておきます。

まず一つ目、バブルへの懸念についてです。確かに今の成長が50年続くとは思いません。けれど、都心を少し離れると広大に広がる原野、そこに秩序立って開発が進むマンション群、華美でなく洗練されたモデルルーム。それを見れば「考え抜かれている事業であること」「必要性を伴う事業であること」「計り知れない将来性があること」を感じざるを得ず、少くとも20年は成長し続けることは間違いないと思うのです。100㎡のマンションが将来性豊かな都市で1000万円以下で買える。海外住宅でもローンが組めるなら買っていただろうな、と思います。上海の3億円のマンションも見てきました。東京都内で同じグレードで同じ地域利便性のマンションを買おうと思ったら4、5億円くらいかかると思います。高額商品であっても、たしかな値段感覚を持って事業が作り込まれている実感がありました。ここまで中国のリーダー達が深く考えて行動しているなら簡単にこの経済成長は崩れないと思います。そして何より経営者の中心は40代とものすごく若い。きっと小さな失敗を繰り返し、世界を翔ける実力者へと成長し、それとともに中国は世界のバランスを担う存在になっていくのでしょう。



(原野から、都市設計のジオラマが作られ、設計図が施行を受けて一つの住戸となり、そして町並みを形成していく。イマジネーションが現実になっていく現場を見て、身震いがした。)

そして2つ目、中国人はお金のことばかり考えているという偏見ついて。これは一部当たっている部分もあるかもしれませんが、お金という概念を超越して強い正義感と信念をもった人たちは確実にいます。むしろ、信念を持っている人は日本人なんかよりも分かりやすく熱さを露わにしており、義理人情をとても大事にしています。

聞いた話をひとつ。事業パートナーのうちの会社の担当者と会食をしたあと、うちの会社の先輩から聞いた話です。

「あの担当者の人、最近昇進したんだよ。給与体系が成果報酬に変わったらしいんだけれど、上がった給料の分を中国の恵まれない子供達に寄付しているらしい。頑張れば頑張るほど自国の子供たちが救われる、そう思うと仕事が楽しくて仕方がないらしい。東日本大震災が起きた次の日、財布の中からパッと五万円抜き出して日本のために役立ててくれと日本人スタッフに渡したらしいよ。」

僕はこの話を聞いた時、こんな人が少しでも中国にいるのであれば、彼らのために何かしたいと心の底から思ったのです。

僕が会った人たちがかなり教育水準の高い人だったというのはあるとは思います。けれど彼らの瞳の奥には夢があり、信念がある。僕らは他国の人を一般論や総体的視点から見てしまいがちだけれど、結局は同じ人間。中国政府が日本船に中国船をぶつけることを仕向ければ中国を恥ずかしいと思い、開発のために人々から土地を取り上げれば自分のことでなくても政府に怒りを感じること、それは震災や国際的課題にノロノロと対応をしない日本政府を恥ずかしく思う我々と同じで当然だと思うのです。

どの国にもしょうもない権力者はいて、どの国にも名もなくも正義と信念を貫く人達がいる、そういうことなのだと思います。

自分がビジネスマンとして生きることのできる30年とちょっと。その20年、中国の人たちの仲間にいれてもらって一緒に成長を楽しめる瞬間があるとするならば自分の男としての青春を捧げる価値はある、そんな想いが胸にグサっと突き刺さりました。いつかは日本に戻ってきて日本のために人生を捧げたい、その想いは決して消えていません。けれども逆説的に日本の役に立つ実力や仲間を作るには、いったん日本の為という打算を越えて、本当に中国のためだけに生きる瞬間がなくてはいけない気がしています。

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中国人の希望に溢れるその目の輝きを、20年後も、30年後も絶やしてはいけない。その先には日本に成し得なかったアジアを正しい方向に導くリーダーシップが必ずあると信じる。時代の流れに応じてリーダーになるのに的確なヒト、タイミングというのは必ずある。そのタイミングでない立場の人間が我リーダーたるべしとしゃしゃりでるからモノゴトがおかしくなるのだ。アジアのリーダーとしての役割を、日本から中国に緩やかにバトンタッチしなければならない時はもうすぐだ。

日本はまた求められる時が来るまで虎視眈眈と力を蓄えればよい。リーダーになりたいとわめきたてることによってその時がくるのではなく、アジア、そして世界に人知れず淡々と貢献し続けることよって、アジアの民に求められて日本人がリーダーとなるべき時がくるし、その日本人のリーダーはきっと東日本大震災の苦難を乗り越えた子供達の中から出てくる気がする。その時まで、僕らの世代は今その瞬間のリーダーを全力で支えなくちゃいけない。5万円の恩恵を受けた子供たちが、その恩恵を世界中に返そうと世界に羽ばたくその日まで。

(羽田空港の出口に置いてあった看板。我々には言葉だけではなくこの恩恵を世界中に返す義務がある)

いずれ来る経済発展の終わり。その時に中国が日本のように毎日下を向いて通勤するビジネスマンで溢れかえる国にならないよう、中国のために僕が何をできるのか、うちの会社が何をできるのか、深く深く考えて毎日行動していきたいと思います。とりあえず中国語だなー!

2012年3月16日金曜日

夢の続きを。

久しぶりの更新です。

最後に更新してから、壮絶な時間を過ごしていました。

活動を追ってくれている人はご存知だと思いますが、ずっとSport Solutionのプロジェクトの準備をしていました。Sonicsでインターンをしていた時にお世話になった上司のWy、そして旦那さんのFred。この二人が3月9日から3月14日まで来られることになり、それが決まってからというもの、決して止まれない、詰め切れていないものがたくさんある、けれど走り抜けるしかない、そんな状況でした。仲間に助けられ、励まされ、全ての日程を無事に、むしろ想像していたよりも強い手応えを感じることができました。Fredを中心としたPassion CampWyのNBAでの経験を凝縮したセミナー東北でのバスケ教室、全てが無事に終了しました。


「日本バスケとNBAの架け橋になりたい」

高校生の頃に描いていた夢は、Sonicsのインターンを通じて上司のWy、その旦那さんのFredと出会い、具体的な言葉に置換わりました。


「WyとFredを日本に呼び、日本で子供達が本場のバスケを触れる環境を作りたい」

今回、その夢が叶いました。



「bjリーグとJBLを繋ぐ架け橋になりたい」

その想いも、東北の方々の温かいご協力を得ることで実現しました。


SMRGという組織で体を動かして活動をはじめた20歳の頃から約7年半年。ここまで来るのには長い道のりがありました。活動を重ねる中で、いつのまにか仲間の夢を叶えることが夢になり、その夢もまたこの数日間で実現していきました。夢を叶える、それはある人にとって遥か彼方にあるものなのかもしれません。けれども、夢焦がれた夢が今実現し、何か不思議な気持ちでいます。もちろん、これは始まりにすぎません。ただ、夢が叶ったと胸を張れる瞬間が、この数日間にいくつもあったのは確かなのです。


自分の夢を叶える過程で、色々な人の想いが体を通り過ぎて行き、頭の中が一杯なのか、空っぽなのか、よく分からない感覚です。お世話になった方々に一刻も早く報告をと思いブログを書き始めましたが、うまくまとまりません。


また、少し心が落ち着いたら皆さんに報告したいと思います。

支えて下さった全ての皆さん、本当にありがとうございました。少しだけ休んで、また歩き出します。

Hiro

 (3月14日オクラホマに帰っていくWyとFredと一緒に成田空港で)

2012年1月1日日曜日

2012年の成長テーマ「受容」「牽引」そして「笑顔」


毎年言ってる気もするけど、今年は本当に勝負の年。今年のテーマを宣言します。

と、その前に2011年のテーマはなんだったかというと「謙虚」と「安定感」。ちょっと仕事ができる様になって何でもできる様な錯覚に陥ってトラブルに陥ったり、トラブルに陥ったらパフォマーンスが下がった2010年を反省して設定したこのテーマ。

プライベートのコントロールによる体調管理なんかも含め、個人として仕事をする分には2011年のテーマはおおむね達成できた様に思う。

(色々なことがおきて色々なことに踏み込んだ2011年。これは6月に被災地に行った時の写真。隣に写っているのは大学を卒業して間もないにも関わらず、現地で年上の社会人を臆することなく仕切っていたボランティアコーディネータの沢村くん。きっと近い将来に震災後の日本を象徴する一人となるのだろう)

2011年に出会った新たな課題。それは沢山の人を巻込みながらモノゴトをコントロールする力。年が暮れるにつれて色々と重大な仕事を任せてもらえるようになってかなり業務がパンパンになって嬉しい悲鳴がある一方、このままだと確実にパンクすることに気がついた。

自分を新しい次元に進めるためには縦横の関係を問わず、変幻自在に色々な人とタッグを組み、ゴールを達成していく力。有名な著書、7つの習慣にも出てくるデレゲーション(委任)能力が必要。仕事が加速度的に難度が高く、量も多くなっていく中NPOもあるとなると、仕事が休日に食い込まない様にコントロールしなくっちゃ行けない。

だから今年の成長テーマは以下の2つにしたいと思っています。

「受容」と「牽引」

モノゴトを誰かと一緒にやろうとしていく時、丸投げや過度な期待は絶対にうまくいかないことを去年痛感した。まず相手を深く理解し、相手のモチベーションの源泉がどこにあるかを理解することが必要。そして自分の考える完璧を押し付けず、モノゴトを成し遂げた結果が相手の考える理想に近づくものである様、アジャストしなくてはいけない。共に歩むとき、相手を丸ごと受け入れ、考え方や価値観の違いを受け入れられるように自らの器を大きくしていきたい。

ただ、受け入れるだけでは足りない。人の心が大きく動く時、それは自分も想像し得なかった情熱に触れ、その先にあるビジョンが見えたときだと思う。この人間と一緒であれば、自分の夢の達成だけでなく、新たな未来の一部を創る当事者になれるかもしれないという感覚が必要。個人の力を120%まで引き出し、1+1=3にする力。どんなに条件が悪かろうが、足りないものが有ろうが、仲間の力を最大に引き出して結果に結びつけていく能力や信頼関係を意識していきたい。

その二つを力をつける上で一番大事だと思っていること。それは

「常に笑顔でいること」

どんな違いも笑顔でうけいれ、どんな問題もワクワクしながら笑顔でチャレンジする。これができればどんな困難だって仲間と乗り越えていける。

震災後、切迫した気持ちの中で、やはり自分自身の笑顔が失われていた様に思う。自然と周囲も厳しい顔になって、後輩にも無用なプレッシャーを与えていたように思う。去年の5月頃は元NFL・NBAのチアリーダーの柳下容子さんと笑顔を広げるプロジェクトをやっていたにも関わらず、いつのまにか自分自身がだれよりも笑顔でなくなってしまったのは本当に恥ずかしい事だ。
(容子さんと一緒に作った笑顔のラジオ体操。あの時に実感したはずの笑顔の大事さを、今本当に痛感している)

部下からミスの報告を受けたとき、仕事の仲間が期限に間に合わなかったとき、起こってしまったことを責めての何のプラスにもならないのは誰もが分かってること。やるべき事はミスを埋め合わせる心のエネルギーを引き出す事なのに、感情が邪魔をして怒り、相手の心のエネルギーを殺ぐことになってしまう。

2012年、僕だけじゃない、去年の震災から歩みを進めみんなが笑顔になれる年であって欲しいし、そうなるように行動していかねば。

みなさん、笑顔でない僕がいたら、注意して下さいね!もう1、2年で海外への赴任も現実味を帯びてきた中、残された日本での時間を思いっきり笑顔で過ごしたいと思っています。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

2012年1月1日 元旦 田中 裕之