2015年8月29日土曜日

河原町の京都BAL



京都の河原町でリニューアルが完了した京都BAL。これがなかなか良かった。

なにが面白かったかというと、京都らしさを期待して行ったらクラシックな米国風の外観を始めとして、全く京都っぽくないのである。これにはハッと気付かされた。

京都の四条という好立地、素人だったら神社やらお城風の外観を作ったり、京都製品のテナントを入れまくったりと、「京都らしさ」が面白いと思う。

BALに対して観光客は、少しがっかりするかもしれない。けど、商業施設として冷静に「誰に売るか」を考えたら、すぐに気がつく。商業施設を使い続ける人、つまり、商圏にいる京都に住む人たちにとっての非日常、サプライズとは「京都らしくない」ことにあるからだ。丸の内の海外観光客向けの商業施設とは基本姿勢が大きく違う。

あらためて、誰にお金を落としてもらうのか、という感覚を強く持つことの大切さを痛感した。

もちろん、住む人にとっての異空間性やサプライズは重要な視点だけれど、業界として新しいものは、誰にとってもサプライズになりうる。そう思ったのが、空間の使い方。

商業施設としてはの床面積はさほど大きくもないのに、一つのテナントにかなり大きなスペースを賃貸し、デザインに対して高い自由度を与えていること。商品が陳列されていない空間がとても多いのである。「無駄なく、無駄がある」といったところか。



場所そのものを楽しむ、という点では自由が丘や、下北沢には小さくておしゃれな雑貨屋が多くて歩くだけでも好きだけれど、BALでは小さなスペースでは表現できない「あえて物を置かない空間を使うことで商品の魅力を引き出す」という洗練されたデザイン性を楽しむことができると思う。


テナント自身に出店後のレイアウトデザインの自由度、可変性を与えることで、ショッピングモールとしての販売促進を大きく打たなくても、変化を加えることのできる可能性があることも気付きの一つ。




10年、20年というスパンでこの商業施設がどう変化を繰り返していくのか、とても楽しみ。

2015年8月22日土曜日

愛と覚悟と



何かを一生愛し、共に生きるという覚悟。どんなにそれが強い決心であったとしても、変わってしまうことも、乗り越えられないこともある。

けれど、それは決してその人が弱かったり、間違っていたりするわけでもなく、誰だってどうしようもなかったこともある。逆に、弱い決意だったとしても、すっと何かが作用して、乗り越えられてしまうことだってある。

力んでも、怯えても、結果は分からないのなら、できるだけ自分がその瞬間に納得できるように、あの日の決断はあの時のベストだったと思えるように、そう生きていくしかないのかもしれないね。

2015年8月17日月曜日

チャンスはピンチ



ピンチはチャンス、それだけじゃない、ポジティブな言葉はたくさんある。

けど、ピンチを招くこと自体、もうこの歳になったら二流なんだってこと。

世にある格言は一時の心の安らぎをくれるけど、真に受けてはいけない。成功の定義は人それぞれだし、成功なんて移ろいやすいものだから、一概に今誰が幸せかなんて言えないけれど、満員電車には下を向いた人間が溢れているのも事実なんだ。

あまりに切羽詰まって心が緊張しまくってもうまくはいかないだろうけど、甘えてる場合じゃねーんだよと。

結果だそう、結果を。

2015年8月12日水曜日

身勝手な優しさ


誰もが心の深くには、前向きな言葉だけでは塞ぐことのできない傷があって、誰かに優しくしたり、べき論をかざしたりするのは、その傷がまた開かないようにするためだったりするよね。

どこまで行ったって、人間なんて自分勝手な生き物なんだと思う。だけど、果たすことのできなかった想いを叶えるために、自分勝手にならないといけないのなら、思いっきりわがままになればいいんじゃないかって思う。

いいことも、わるいことも含めて、自分の想いや感情をありのままに受け入れてあげること、それを言葉にしてあげること。他人との絆も、きっとそこから始まるような気がしている。

引越し準備



あの頃、全てが、少しずつ、消えてなくなってしまうんじゃないかと思った。

けれど、結局それは部分的には思い違いで、物体としてのそれは何一つ消えはしなかった。けれど、部分的には当たっていて、目に見えない何かが、たくさん壊れていった。

壊れたものの中には大切にしていたモノも沢山あったけれど、自分自身の中にあった粗大ゴミに突っ込まなくちゃいけなかった何かも、そろそろ買い替え時になったようだ。

でも、しばらくはウィンドーショッピングだけでもいいかもしれない。買い替えてしまったら、そんな簡単には捨てられないから。もう少しだけ、リサイクルしてしのぎながら。


2015年8月9日日曜日

愛着の功罪


人は、愛し、愛される関係の中で心の礎を築いていく。

けれど、地中に深く突き刺さった関係性の杭は、自分自身を心ごと強くその場所へと打ち付け、がんじがらめにしてしまう。たとえそこから離れることが最善だったとしても。

大きな夢を追い続けるには、それを、振りきらなくてはいけない瞬間が、必ずくる。

夢を追うには強靭な心が必要だ。いや、それ以上に、非情でなくてはならないのかもしれない。

そうしたら、次世代を担う子供たちに「夢をもちなさい」なんて、軽々しく言えやしないんだ。

夢を叶えた人たちへ、夢に敗れた人たちへ、聞きいてみたい。夢を追ったその先に、あなたの本当に求めていたことがあったのか、代償よりも大きなものを得たのかって。

でも、回答がどうであったって、僕は夢を追い続けていたいんだろう。

2015年8月8日土曜日

夢と、愛と



何度と思っただろう。鮮やかすぎる夢、強すぎる目標に心が縛られていなかったら。

そうでなければ、もっと、今を楽しめていはず、と。でも、その葛藤から逃げ出すことは、「普通」であることを敗北だとでも言うかのような、「自分らしさ」の放棄だと認めるかのような。

ゆらゆらと揺れて、時に大きな不安が訪れ、それもまた、自分への軸を無くしたままの他者との比較が原因だと再認識しては、心は冷静を取り戻す。

こうありたい自分。達成したい夢。

時代が求める人間像。自分を必要としてくれる人。

そして、なぜだかホントのところは深くは分からないけれど、自分を気にかけ、愛してくれるあの人。

いろんな残像が重なって、「頑張ろう!」、と、「もう投げ出したい。。。」が、ぐるぐるっと回って、前よりも少しはまともな気づきを手にして、まあ、明日もちょっとは進歩を感じられるんじゃないかと、少しこじつけたような感覚。

そんな、こんなで、でも、ぎりぎりトータルプラスなんだろなって、そう思いながら生きている、今日この頃。

2015年8月3日月曜日

ごまかせない想い



自分が過去に負った苦しみと同じの様な苦悩に立ち惑う人をみると、いてもたっても居られなくなる。

こういうときに限って「忙しい」とか「自分で精一杯」とか、そういう時期だったりする。

本当の意味で救えるかどうかも分からないのに。自分の傷が大きくなるだけかもしれないのに。


それでも、体が勝手に動こうとするのは、自分こそそうやって助けられてきたから体に刻み込まれているのであり、またそれこそが、人間の本能の一部ということなのだろう。

アホだなぁ、と思いつつも、少しだけ頭の中のお利口さんを黙らせて、感情に従ってみようか。