2014年12月9日火曜日

バスケットボール業界に、行ってきます!

みなさま

結構、大事なご報告です。

この度、三菱商事を退職し、バスケットボール業界へと身を転じることになりました。

三菱商事の最終出社日は11月21日だったので、もう会社には行っていませんが、かなりガッツリ有給をとらせて頂いていて、12月26日が三菱商事社員としての本当の最終日になります。

実は、10月までは、定年退職まで三菱商事にいるつもりでした。仕事の内容も、同僚も、上司も、みんな大好きでした。決してバスケットボールのための仕事をすることを諦めたわけではなく、スリーダイヤをつけたバスケチームを作ることを夢に、色々なことをプロジェクト化しようと動き始めていたところでした。


でも、11月に、すべての考えを覆すような、奇跡の出会いが何度もあり、そして、考え方を変えてしまいました。

いま、すぐ、大好きなことをやらずに、いつ、やるのか。歴史的にバスケットボール業界が最悪とも言われるこの時に、バスケットボール界を変えていくと宣言した男が、この状況と向き合わなくていいのか。

このタイミングで、バスケットボール業界内で一番憧れる人に、一緒にやろうと声をかけられ、バスケットボール業界に飛び込むことを即断しました。もう、振り返りません。三菱商事に育ててもらった6年半全てを注ぎ込んで、日本のバスケの未来のために身を尽くします。

日本のバスケットボールは、確実に、変わると信じています。このタイミングで、良き意思を持った人たちの「行動」によって、あるべき姿へと、必ず変わっていく。

僕が変える、なんておこがましいことは思っていなくて、バスケットボール業界に必要なことを、語らず、口を閉じて、淡々と遂行していく。その背中をみて、色々な人が行動するきっかけになればいいと思っています。僕は、日本のバスケットボール業界があるべき姿を取り戻すまで、「絶対に」諦めません。

みなさま、これからもご指導こ鞭撻のほど、よろしくお願い致します。転職先は、12月26日までの三菱商事との契約が満了し、転職先の会社と正式に契約書を締結してからご報告します。

一部の方にはご報告してますが、それまではナイショでお願いしますね


2014年10月24日金曜日

「先生」ってなんだろう。

「先生」ってなんだろう。

僕が卒業した慶應義塾大学では福沢諭吉さんを「先生」、という。一方、福沢諭吉さん以外の人間に、それが教鞭をふるう人間であっても「先生」をつけることは許されない。かならず「さん」をつけることになっている。「天は人の上に人を造らず」という言葉から、人に上も下もないという思想からである。

僕はずっと疑問だった。では、福沢諭吉さんは、ボクらの上に君臨する、神のような存在なのか?本当に彼はそんなことを望んでいたのだろうか。

慶應義塾大学を彼が造ったのは間違いない。けれど、彼が望んでいたのは、彼が世界を去った後、自分が想像しないような、新しく、壮大な創造が生まれること、彼が造ろうとしたものを超える人間が慶應義塾大学から世界に飛び立っていくこと、それを願っていたのではないだろうか。

福沢諭吉さんが生きていた頃の日本とは違い、我々は豊かさと技術力を手に入れた。そして、歴史資源、自然資源の豊富さや、漫画やアニメ、ゲームといった日常を楽しく生きる為の手段にもあふれている。開塾した150年前より明らかな条件的・環境的有利にも関わらず、福沢諭吉さんを絶対の存在として位置づける行為そのものが、我々の可能性を限定しているのではないだろうか。


僕自身は、「先生」はもっと気軽に使っていい言葉だと思う。むしろ子供に対しても使っていい言葉だと思う。

僕はこう思う。先生とは先に生きている人ではない。その道で先を生きている人だと。意思を持って道を選び、目の前にある二人の関係が、「先を行く人」と「後を追いかける人」にあること。ある人は、ある場所では先生であっても、ある場所で先生ではなくなる。だから、先生と生徒の関係は簡単に成り立つものではない。

また、その人間関係において、片方が完全な先生、片方が完全な生徒ということもあり得ない。ある部分では先生の役割を担い、ある部分では教えを請い、向き合ってくれる人間を敬意を込めて「先生」と呼ぶ。

これが、福沢諭吉さんの言っていた半学半教の真意ではないかと僕は思うのだ。

今流行していることや、スポーツや音楽の話を一生懸命教えてくれる子供達。バスケ教室で出会った子供達に妖怪ウォッチについて教えてもらう。どうやってうまく攻略するか教えてもらう。勉強ではないかもしれないが、僕はそれで楽しい時間をすごし、また子供にありがとう、という気持ちに包まれる。

子供と接していると心が洗われる、とか、素直な気持ちに昔の自分に気づかされる、とかそういう結局は上目線の話じゃない。目の前にいる人は自分と違う一生を生きている。それは短かろうが長かろうが、同じ生き方は絶対にない。だから、知らない知識、知らない経験を教えてほしい、それに辿り着くまでにどんな生き方をしてきたのか知りたい、そう相手に心の底から興味をもつことから温かな人間関係は生まれ、まるで先生のように時には友人からのアドバイスを素直に受け入れ、ある部分では手を差し伸べてリードすることができる。いつの間にか、生きた知恵と仲間に囲まれて、なんだか幸せな気分になっている。


「先生」という言葉は、もっと日常にあふれていて、そして気軽で、重いものだと思う。

2014年10月21日火曜日

生きていく、ということ

最愛の友人から人生を懸けた相談を受けてから1ヵ月半を経て気がついたこと。

明日はもう生きられないかもしれないから、大好きな人は生きていないかもしれないから、当たり前が当たり前じゃなくなるかもしれないから、今、この時間を思いっきり、手を抜かずに過ごそう。

けれど、僕が大好きな人たちは逞しく生きる人たち。仲間を心の底から大事にする人たち。

だから、僕は今日どんなことがあっても、乗り越えて明日も生きていける。大切な仲間も、今日を乗り越えて明日も生きていてくれる。そうだったら明日の世界もきっと、悪くはない。そう信じることができれば、今を、焦らずに、穏やかな心で、笑って過ごすことができる。

生きる喜びを胸に、自分を信じること、仲間を信じること。未来を信じること。その大切さを、いま、心の底から感じている。

そして、もしなにか努力ではどうしようもない不運がおこったら、、、


妖怪のせいなのね、そうなのね。


そんな生き方が僕にはしっくりくる気がする。

2014年10月17日金曜日

バスケがしたいです

ようやっと、ようやっとこの日が来た。

7年前、大学4年生の時、バスケ人生の全てを懸けて1年間、最高の仲間とバスケをして、ホンキのバスケにサヨナラしよう、そう思っていた。留学から帰ってきて、こころ弾む4年生の5月、左膝の前十字靭帯を切って全治1年間、ホンキのバスケは一生、僕の人生から消えたと思っていた。

この一ヶ月、自分にとって壮絶な時間だった。僕が膝を怪我し生きる気力を失っていた時に支えてくれた最愛の親友に、不運によって夢が奪い去られる大きな悲劇が訪れて、彼の苦しみと向き合ってきた。

おととい、彼は一つ前に進むことができて、昨日彼と飲み明かしていた。

バスケを支える為に、命を捧げる。怪我する前、NBAのインターンに受かった時に決意したこと。膝の怪我をした後、この勝手に背負った使命から逃げたかった。ホンキでバスケができなかったこと、それは、ホンキでバスケができる人を妬む心の醜さに変わり、そんな小さい自分が、自分をさらに嫌いに、そして小さくしていった。

前十字靭帯を切ったあと、大学時代の最高の仲間と向き合うことができなかった。彼らの最後のホンキのバスケの思い出の中に、僕がいなかったから。バスケに出会わなければよかったという思いが、発作のように、呪いのように僕の体の中を突然襲うことがあった。大好きな大学時代の仲間とすごせば過ごすほど、その痛みは大きくなっていった。



親友の苦しみに寄り添ううちに、一つ、気がついたことがある。前十字の怪我がなければ、彼の苦しみに向き合うことはできなかった。そう思った時、心の底から怪我をしてよかったと思ったのだ。

子供の頃から憧れていたNBAに入るということ。プレーヤーではないけれどNBAのインターンが決まり、子供の頃の夢が叶った時は1人で寂しくて、何か空しかった。僕が本当に欲しかったもの、それは、大切な仲間とホンキで何かをやり抜いた時に、喜びと感動を分かち合えることなんだって、その時に気がついた。そして、強く思った。僕にとっての人生最大の夢、それは大学で出会った最高の仲間とホンキでバスケをすること、ただ、それだけでいいって。

初めて、その夢に破れたことが、誰かの、しかも最愛の友人の苦しみを少しでも和らげることに役に立った。

怪我をしたことが、自分にとって初めて価値のある意味をもった。バスケの呪いが完全に解けた瞬間だった。


もう、あの頃のように高く飛べない。あの頃のように早く走れない。でも、そんなちっぽけなことじゃなかった。僕がしたかったのは、大会場で観客に囲まれてプレーすることではない。年収1億円の収入をバスケで得ることでもない。ただ、今、持つ力を振り絞って、勝利を心の底から信じて、仲間の力を合わせる、その高揚感を、興奮を、感動を、1人のアスリートとして味わいたかっただけなのだ。

あの頃の仲間は1人も死んでいない。みんな生きている。そして僕も、何とか、今、生きている。生きてさえいれば、いつだって僕はアスリートとして、仲間とホンキのバスケができる。夢は砕けてなんかいなかった。

バスケが僕に呪いをかけていたんじゃない。シアトルから帰ってきた時に、2008年卒業のチームのユニフォームを作ってくれて待っていてくれた最高の仲間に、勝手に心を閉ざしていたのは、僕自身だったんだ。

今すぐ、バスケがしたい。大学時代の仲間に会いたくて、震えが止まらない。

7年間、長かった。ようやっと、大好きな自分に出会えた。今は胸を張って言える。バスケに出会えて、本当に、本当に幸せだと。

クソ野郎共、さあ、バスケするぞ。

2014年10月15日水曜日

これまで、積み重ねてきたもの

今、いままで一番やりたかったこと、これこそがバスケや日本の未来を変えるかもしれないと思っているプロジェクトの準備を進めています。



自分が、これまで、積み重ねてきたもの。

10歳のころ、バスケットに魅せられ、20歳の頃、自分は日本のバスケットの未来のために生まれてきたと確信し、自分ならバスケット界を変えられると根拠の無い自信とともに歩んできた。

自信が何度も粉々になって、自分の生きる意味すら見失いそうになって、そして、本当に大事なものも全て失いそうになって、ボロボロになりながら全力で駆け抜けてきた。あるとき、ふっと走るスピードを緩めた時に、いつの間にかたくさんの仲間と、たくさんの思い出に囲まれていて。根拠の無い自信は、蓄積してきた経験と仲間の支えがあれば必ず達成できるという確信に変わった。

バスケットへの情熱に目覚めてから、はや20年。スラムダンクの感動を超えるバスケットを現実にするために、これまでの自分の全てを注ぎ込み、今、動き出します。