2011年7月31日日曜日

NBA選手を日本に連れてくる為に、アメリカにいってきます!

今週、会社の有給を取って3日水曜日の深夜からアメリカのオクラホマシティに行く事になりました。時差があるので同日3日に18時にロスに着き、一泊した上で4日にオクラホマシティに入り、7日早朝にオクラホマシティを出て8日の昼に日本に帰る予定です。

僕は今から約5年前、Oklahoma City Thunderの前身であるSeattle Supersonicsでインターンしていましたが、当時の上司の旦那さんがワシントン州では影響力のある人で、NBAの選手を日本に連れて行って事業をしたいと持ちかけて来た事がきっかけでした。今も当時の上司はThunderの地域貢献部門で働いており、旦那さんも転居した為オクラホマシティに行く事になったわけです。

【Sonicsインターン時代にサポートをしたニック・コリソンのクリニック】
〈内容は極めてファンダメンタルで特段特別な要素はなかったが、一番すごかったのは熱心なボランティアスタッフ〉
〈NBAは華やかさだけに支えられているのではない。子供達に必要なのは必ずしも完璧なスキルのお手本ではないのだ。ホンキで一人一人に向き合い心の底から彼らの成長を願い接することを通じて、子供達は人との繋がりの大切さを学びながら成長していく。彼らの様に現場に熱く高い志を持つ人間がアメリカ各地にいるからこそ、NBAの市場は成立しているのだ。〉

今回の旅では具体的にNBA選手に会って打ち合わせる予定だったのですが、残念ながらロックアウトに突入してしまったことから不可能になってしまいました。上司は今もNBA正社員である事から選手にコンタクトを取ることは禁止されているのです。その為次回以降、ロックアウトが解消された後の旅でNBA選手とは会う事になります。

NBA選手を呼んだら日本のバスケがもっと盛り上がるはず、そう思う人はバスケファンは沢山いると思います。NBAの選手を呼ぶにはNBAの権利関係、そして高額のコストをクリアしなければなりません。アメリカ側もNBA選手が行けば日本企業はスポンサーを出すだろうと思っている部分があると思います。しかし、日本はバスケットのマーケットが小さく日本企業にとっても広告宣伝効果は見込めず、NBA本体にとっても日本にNBA選手を連れて行くメリットはあまり有りません。もしかしたら知り合い全員に土下座して自分も身銭を切って、NBAにも秘密でこっそりやれば一回呼ぶ事はできるかもしれません。でも継続性が見込めないなら意味は無いと思っています。きっと、これまでのスポーツイベントの思考回路では、解決策を見いだす事はできないでしょう。創造力豊かなソリューションの立案が必要になってきます。

その解決策の先を社会性に求めようと思ってますが、日本のスポーツ界の社会貢献事業は「夢」というテーマ以上のものを合理的に社会解決のツールとして殆ど打ち出せていないように思います。夢は確かに重要ですが、それだけではこの不景気では企業の懐からお金を出す理由にはなり得ないと思うのです。

NBAと親和性があるもので日本が抱えるのは、英語教育含む国際コミュニケーション、コミュニティ意識の希薄化と成員の多様性の低さ、そして大震災からの復興だと思っています。かならずしもチャリティーにこだわらず、企業の研修費等も絡めたビジネスとしての資金集めも考えようと思っています。

日本側が抱える社会問題と大義名文、アメリカ側が求めるもの、今回は第1弾として両者の考えにズレが生じない様、相手の本音を聞ける様、顔を突き合わせて確認してきたいと思っています。

皆さんに、いい結果報告ができる様ちゃんと成果を持ち帰ってきます。楽しみにしていて下さい!

2011年7月27日水曜日

スポーツの価値発信の新たな可能性~スポーツとコミュニティ~(2)

しばらく時間が空いてしまいましたが、大学生の時にHOOP HYSTERIAに投稿していた記事の前回の続きです。

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日本の場合はどうでしょうか。日本に住んでいるのはほとんどが日本人。また日本人はほとんどが無宗教であり、ゲイやレズビアンに対する偏見の目は根深いものがあります。アメリカ人に比べると日本人は同質性が全体的に強いため、もともとのバックグラウンドというよりは、スポーツそのものがきっかけとなってコミュニティを作ることが多いように感じます。初等、中等教育で部活動は大きな役割を成し、その大半はスポーツです。中高の部活を通じて一生の友達を得たという人も数多くいるのではと思います。その後の大学や企業内でも、高校卒業後、部活動には関わらないがそれでもスポーツを続けていたいという人々が数多く居り、プレーするために自発的に仲間を集め様々なコミュニティを作っています。こういったコミュニティ形成のスタイルは依然として根強く日本社会に定着しています。このように、スポーツは日本のコミュニティ形成において非常に重要な役割を担っています。またコミュニティを形成することによって、「見えざる価値」を生み出し、日本の社会を支えてきたのです。

その一方で、現在問題となっているのが少子高齢化、財政難によるスポーツに関する国の予算の大幅なカット、そしてそれに伴ったスポーツ自体の縮小です。事実、日本のスポーツは、施設の維持や、施設の従業員の確保などにおいて、国の予算に大きく依存し、低料金でサービスを提供してきました。税金を必要以上に浪費していた事実もあるようです。ある意味カットは当然のことかもしれません。しかし、ここでの問題点は、地域自治体が政府から自立した運営をするのに充分な方法論や経験を確立するのを待たずして、急速に予算のカットが進んでいることです。これらが影響してスポーツの運営に支障をきたし、コミュニティが減少するなどの事態が起きた場合、地域社会の結びつきや生活環境に悪影響をきたすおそれがあります。予算カットを主張する側に「スポーツをやらない人がいるのだから、スポーツに関してはスポーツをする人間だけがお金を払うべきで、全く税金の投入はすべきでない」という極端な意見がまれにあります。もちろん一部納得できる部分もあります。しかし、コミュニティの説明で述べたように、スポーツをしていない人でも、間接的にスポーツによるメリットを享受している可能性は充分にありえるので、必ずしも現在スポーツをしている人だけが資金を全て負担すべきという主張が理にかなっているとは思えません。

スポーツが予算カットの矛先にされたように、スポーツの立場が日本社会において比較的弱い立場にある理由の一つは、スポーツの価値が依然として多く「見えざる価値」を含むということです。価値が不可視のものであり、感覚的なものであれば、「スポーツ愛好家の単なる主観的な主張だ」と批判を受けても、反論する手立てがありません。これは「スポーツ」という研究分野が日本で確立されていないことの結果でもあります。しかしそれが日本スポーツ界の現状です。現在のスポーツの見えざる価値を、「測量可能な価値」にし、スポーツの社会的な必要性をアピールすることがもっと必要なのです。税金を投入されたとしても、有効活用した結果それを上回る経済効果を生み、しかもそれを証明できれば問題ないはずなのです。スポーツの存在によってどの程度地域の積極的な活動を生み出し、お金と労働力が削減されたのか。どれほど健康に寄与し、保険料の削減に貢献したのか。これらは一例に過ぎませんが、スポーツの価値を誰もが共有できるように数値化し明確化するのは必須だといえます。

あいまいな価値を「数」というものに置き換えて表現するのは、困難な作業であることは間違いありません。しかし、既に研究の進んでいるコミュニティという価値尺度からスポーツを見つめなおすことにより、スポーツの見えざる価値を測定可能な価値へと転換することが容易になり、スポーツの価値発信を新たな次元へと推し進めることができるのではないかというのが私の主張です。

次回はその数値化に関する実際の取り組みについて、近年よく話題に上がる総合型地域スポーツクラブの例に触れながら解説していきたいと思っています。

それではまた次号。