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日本の場合はどうでしょうか。日本に住んでいるのはほとんどが日本人。また日本人はほとんどが無宗教であり、ゲイやレズビアンに対する偏見の目は根深いものがあります。アメリカ人に比べると日本人は同質性が全体的に強いため、もともとのバックグラウンドというよりは、スポーツそのものがきっかけとなってコミュニティを作ることが多いように感じます。初等、中等教育で部活動は大きな役割を成し、その大半はスポーツです。中高の部活を通じて一生の友達を得たという人も数多くいるのではと思います。その後の大学や企業内でも、高校卒業後、部活動には関わらないがそれでもスポーツを続けていたいという人々が数多く居り、プレーするために自発的に仲間を集め様々なコミュニティを作っています。こういったコミュニティ形成のスタイルは依然として根強く日本社会に定着しています。このように、スポーツは日本のコミュニティ形成において非常に重要な役割を担っています。またコミュニティを形成することによって、「見えざる価値」を生み出し、日本の社会を支えてきたのです。
その一方で、現在問題となっているのが少子高齢化、財政難によるスポーツに関する国の予算の大幅なカット、そしてそれに伴ったスポーツ自体の縮小です。事実、日本のスポーツは、施設の維持や、施設の従業員の確保などにおいて、国の予算に大きく依存し、低料金でサービスを提供してきました。税金を必要以上に浪費していた事実もあるようです。ある意味カットは当然のことかもしれません。しかし、ここでの問題点は、地域自治体が政府から自立した運営をするのに充分な方法論や経験を確立するのを待たずして、急速に予算のカットが進んでいることです。これらが影響してスポーツの運営に支障をきたし、コミュニティが減少するなどの事態が起きた場合、地域社会の結びつきや生活環境に悪影響をきたすおそれがあります。予算カットを主張する側に「スポーツをやらない人がいるのだから、スポーツに関してはスポーツをする人間だけがお金を払うべきで、全く税金の投入はすべきでない」という極端な意見がまれにあります。もちろん一部納得できる部分もあります。しかし、コミュニティの説明で述べたように、スポーツをしていない人でも、間接的にスポーツによるメリットを享受している可能性は充分にありえるので、必ずしも現在スポーツをしている人だけが資金を全て負担すべきという主張が理にかなっているとは思えません。
スポーツが予算カットの矛先にされたように、スポーツの立場が日本社会において比較的弱い立場にある理由の一つは、スポーツの価値が依然として多く「見えざる価値」を含むということです。価値が不可視のものであり、感覚的なものであれば、「スポーツ愛好家の単なる主観的な主張だ」と批判を受けても、反論する手立てがありません。これは「スポーツ」という研究分野が日本で確立されていないことの結果でもあります。しかしそれが日本スポーツ界の現状です。現在のスポーツの見えざる価値を、「測量可能な価値」にし、スポーツの社会的な必要性をアピールすることがもっと必要なのです。税金を投入されたとしても、有効活用した結果それを上回る経済効果を生み、しかもそれを証明できれば問題ないはずなのです。スポーツの存在によってどの程度地域の積極的な活動を生み出し、お金と労働力が削減されたのか。どれほど健康に寄与し、保険料の削減に貢献したのか。これらは一例に過ぎませんが、スポーツの価値を誰もが共有できるように数値化し明確化するのは必須だといえます。
あいまいな価値を「数」というものに置き換えて表現するのは、困難な作業であることは間違いありません。しかし、既に研究の進んでいるコミュニティという価値尺度からスポーツを見つめなおすことにより、スポーツの見えざる価値を測定可能な価値へと転換することが容易になり、スポーツの価値発信を新たな次元へと推し進めることができるのではないかというのが私の主張です。
次回はその数値化に関する実際の取り組みについて、近年よく話題に上がる総合型地域スポーツクラブの例に触れながら解説していきたいと思っています。
それではまた次号。
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