「先生」ってなんだろう。
僕が卒業した慶應義塾大学では福沢諭吉さんを「先生」、という。一方、福沢諭吉さん以外の人間に、それが教鞭をふるう人間であっても「先生」をつけることは許されない。かならず「さん」をつけることになっている。「天は人の上に人を造らず」という言葉から、人に上も下もないという思想からである。
僕はずっと疑問だった。では、福沢諭吉さんは、ボクらの上に君臨する、神のような存在なのか?本当に彼はそんなことを望んでいたのだろうか。
慶應義塾大学を彼が造ったのは間違いない。けれど、彼が望んでいたのは、彼が世界を去った後、自分が想像しないような、新しく、壮大な創造が生まれること、彼が造ろうとしたものを超える人間が慶應義塾大学から世界に飛び立っていくこと、それを願っていたのではないだろうか。
福沢諭吉さんが生きていた頃の日本とは違い、我々は豊かさと技術力を手に入れた。そして、歴史資源、自然資源の豊富さや、漫画やアニメ、ゲームといった日常を楽しく生きる為の手段にもあふれている。開塾した150年前より明らかな条件的・環境的有利にも関わらず、福沢諭吉さんを絶対の存在として位置づける行為そのものが、我々の可能性を限定しているのではないだろうか。
僕自身は、「先生」はもっと気軽に使っていい言葉だと思う。むしろ子供に対しても使っていい言葉だと思う。
僕はこう思う。先生とは先に生きている人ではない。その道で先を生きている人だと。意思を持って道を選び、目の前にある二人の関係が、「先を行く人」と「後を追いかける人」にあること。ある人は、ある場所では先生であっても、ある場所で先生ではなくなる。だから、先生と生徒の関係は簡単に成り立つものではない。
また、その人間関係において、片方が完全な先生、片方が完全な生徒ということもあり得ない。ある部分では先生の役割を担い、ある部分では教えを請い、向き合ってくれる人間を敬意を込めて「先生」と呼ぶ。
これが、福沢諭吉さんの言っていた半学半教の真意ではないかと僕は思うのだ。
今流行していることや、スポーツや音楽の話を一生懸命教えてくれる子供達。バスケ教室で出会った子供達に妖怪ウォッチについて教えてもらう。どうやってうまく攻略するか教えてもらう。勉強ではないかもしれないが、僕はそれで楽しい時間をすごし、また子供にありがとう、という気持ちに包まれる。
子供と接していると心が洗われる、とか、素直な気持ちに昔の自分に気づかされる、とかそういう結局は上目線の話じゃない。目の前にいる人は自分と違う一生を生きている。それは短かろうが長かろうが、同じ生き方は絶対にない。だから、知らない知識、知らない経験を教えてほしい、それに辿り着くまでにどんな生き方をしてきたのか知りたい、そう相手に心の底から興味をもつことから温かな人間関係は生まれ、まるで先生のように時には友人からのアドバイスを素直に受け入れ、ある部分では手を差し伸べてリードすることができる。いつの間にか、生きた知恵と仲間に囲まれて、なんだか幸せな気分になっている。
「先生」という言葉は、もっと日常にあふれていて、そして気軽で、重いものだと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿