2016年4月22日金曜日

ZONE



ある極度の集中状態になったとき、ZONEに入ったということが、スポーツではよく言われる。

体と神経の連携が調和しているとき。ベーススキルがしっかりと下支えがあるとき。本能と理性のバランスが絶妙に均衡しているとき。精神と肉体が十分に良いコンディションにあるとき。

条件は諸説あるが人間は100%のチカラを出し続けると肉体が崩壊してしまうため、一定のリミッターが作用するのだが、何かしらが引き金となってそのリミッターが外れる時間帯があるというのだ。

これは仕事にもあると思う。突然、これからやろうとしていることへの恐怖感がなくなり、どんな難しい交渉の道筋も一瞬で閃き、相手の反応を見てプレゼンテーションもその場で柔軟に変化できる。

プライベートで好きなスポーツを続け、自己啓発書をすこしずつ読み進め、大切なヒトとの時間を多く確保するとともに睡眠時間を十分にとる。その日常はもちろん調子が良くて仕事もはかどるのだが、ZONEとはまた違う。ただ調子が良好なだけ。

思わぬピンチが組織に訪れて極度の緊張感が走った瞬間や、見過ごすことのできない不祥事の種を目前にしたときに、自分の危険など顧みずに全ての細胞がその解決に向けて動き出す感じがするのだ。

ただし、ただピンチが訪れてもプライベートも含めて自分がトータルでベストの状態でなければZONEには入らない。

では、ZONEは誰にでも作れるのかというと、正直ZONEに入れるかどうかは天性である気がする。少なくとも何か1つを猛烈に愛せる志向性がない限り、ZONEが発生する状況を作りこむことが不可能だと思うからだ。

では、猛烈に何かを愛する志向性はどの様に作れるのか。


猛烈に愛されたことがある人間は何かを猛烈に愛することができる可能性を持っている、ということであれば、それは限りなく天性という条件と性質が似ている父と母の存在なのかもしれない。

それともう1つ、スポーツならまだしも仕事のZONEは自分のリスクを顧みない結果、組織や社会としては長期的に正解であっても他人の恨みを買い自分を危険な状況に追い込むことはあるから気をつけなくてはいけない。ただ、ZONEが発生する状態を作ろうとすること自体がその危険を受け入れる覚悟そのものであるから、怯むことなど何も無いのもまた真実かもしれない。




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